活動。

ラッセルの平和主義は
現実主義的な平和主義であると特徴づけられる。
そのときそのときの情勢の下で、最悪と思われるものと戦い
最良と思われる手段で平和の実現を目指すといえるだろう。
彼の平和主義への傾倒は、1901年、ボーア戦争中に始まるとされるが
彼が活発に社会的な発言
著作を出版するようになったのは第一次世界大戦からである。
第一次大戦中、ラッセルは徹底的な非戦論を主張し
ケンブリッジの教授職を追われ、投獄されている。
第一次大戦後、ラッセルは戦争に熱狂した民衆の姿に驚きを覚え
平和維持のためには民衆の啓蒙と社会制度の改革から始める必要を痛感した。
この彼の政治的スタンスから、社会主義にシンパシーを感じ労働党へと入党する。
当時、社会主義に傾倒していた知識層は
フェビアン社会主義で有名なシドニー・ウェッブを筆頭に
マルクス主義にシンパシーを感じソビエト連邦に好意的であったが
ラッセルはそのような風潮とは一線を画し
ソビエトロシアに対して批判的な著作を著している。
(The Practice and Theory of Bolshevism, 1920)
The Practice and Theory of Bolshevism において
ラッセルはレーニントロツキースターリンについて厳しい視線を向けている。
第二次世界大戦においては、ナチズムに対抗するために徹底した抗戦を主張する。
第一次大戦における彼の非戦論との違いから
「変節」を批判するものもいたが、ラッセルは、
「世界でもっとも重んずべきは平和だと考えているという意味では
 私は依然として平和主義者である。
 けれども、ヒトラーが栄えているかぎり
 世界に平和が可能であるとは考えられないのだ」
と答え、自らの主張の一貫性主張した。
確かに、第一次大戦に対する彼の評価はその戦中から一貫しており
第二次世界大戦に至る
ヨーロッパの災禍の根元との評価は第二次大戦中も変わっておらず
戦争そのものに対するスタンスには変化はないとはいえる。
第二次世界大戦直後は、世界政府樹立とそれによる平和維持をめざした。
アメリカの持つ原爆という超兵器の抑止力によって
ソ連を押さえ込むことで実現することを構想し
西側諸国による核の保有による東側との対抗を説き
労働党の委託を受け精力的に講演を行った。
しかし、その構想は、ソ連核兵器開発の成功
アメリカ・トルーマン大統領による水爆開発計画によって破綻する。
米ソによる水爆戦による世界の終末というものが一挙に現実味を帯びたため
ラッセルは、その最悪のシナリオを回避するため
核兵器廃絶の運動に身を投じる。
1955年7月9日、「ラッセル・アインシュタイン宣言」を発表。
この宣言は、ラッセルが起草し
アルベルト・アインシュタインが署名を行ったものである。
アインシュタインがその署名を行ったのは、彼の死の1週間前のことであった。
このラッセル・アインシュタイン宣言は、パグウォッシュ会議につながる。
1961年には、百人委員会を結成し
委員長に就任。
英国の核政策に対する抗議行動を行った。
同年9月、百人委員会による国防省前での座り込みの際に逮捕され
生涯二度目となる懲役刑を受けることになる。
ベトナム戦争に対しても、ラッセルは厳しい批判行動を展開した。
サルトルらとともに、アメリカの対ベトナム政策を糾弾する国際戦争犯罪法廷を開廷する。
その後も、1970年、97歳でこの世を去る直前まで、精力的に活動した。