首吊り高校。

幸せな人生とは如何云うものを差すのだろう。
無論絶対的な評価とすれば
幸福と不幸の間には明確な区分がある。
然し、どんな幸福な状況に在っても
本人が其れを不幸だと認識していれば
本人は不幸せだろう。
反対にどんな不幸な状況に在っても
本人が其れを幸福だと自覚していれば
本人は幸せだろう。
事を幸せ不幸せの基準で判断する限り
其れは始めから終わりまで
主観的な判断に委ねなければならない。
例えば宝籤で一等を当てた人間は幸せだろうか?
普通人から見れば其れは幸せだろう。
けれど彼自身が其れを幸運だと認識する為には<<宝籤で一等を当てなかった>>という不幸を経験しておく必要がある。
若しも彼が宝籤で一等を当て続ける人間だった場合
其れは幸せではなく日常の一齣に過ぎない。
勿論其の逆も然り。
結局、人間は比較する事でしか幸福も不幸も解からない。
此れは平等なんて言葉が真実には存在し得ない事を意味する。
全てに等しき存在感なんて在り得ない事を意味するのだ。
幸福と不幸は繋がっていて
個人ではなく全体として見るに到って
漸く相殺されて零となるのだから。