観察された結果から原因を導く場合の理論と云うのは
大抵の場合後付けだ
自分や他人を納得させる為に後から補強された理論だ。
然し思考や発想の道筋は其れ以前に既に存在している。
理論なんて云うのは詰りは唯のコンクリート舗装か
ガードレールみたいなモノに過ぎない。
後から来る人の為に走り易くするという役目をしている丈だ。
抑、其の理論を構築した本人自身だって先に其の路を一度通っている。
舗装もガードレールもない所を最初に通っている。
其の最初の思考過程には言語によって明確に限定されたもの
詰り、理論と呼べるものの実態は未だ存在していない。
否。
存在する、と錯覚している人も居る様だが
其の場合は個人の頭脳の中に存在する別の傍観者が表層に現れて居るに過ぎない。
其れは最初の発想を持った中心人格とは明らかに別の人格だ。
但し、中心人格が傍観者的人格を納得させる為に理論的筋道を作ってやっている場合もある。

私欲は自己愛の塊である
魂の抜けた肉体は何も見えず 何も聞こえず 何も知らず 何も感じず全く動かないが
其れと同じで私欲から離れた――仮にそういうことが有り得るとして――
自己愛も 何も見ず 何も聞かず 何も感じず全く動かなくなる
其れ故 私欲に駆られて陸と海を自在に走り回っていた同じ人間が
他人のためとなると突然躰が麻痺して仕舞う
或いは会談中 我々が自分のことばかり話していると
聞いている者は誰も突然眠気に襲われたり仮死状態になったりするが
逆に相手に関わる話題を混ぜると早速彼らは生き返る
此んな風にして会話に於いても交渉ごとに於いても
ひとりの人間が自分の利害が近付くか遠ざかるかに応じて
一瞬にして意識を喪ったりまた意識を取り戻したりするさまを見ることが出来る