ナルシー。

パスカルが言うには
人生における全ての知的行動・文化的行動
そして、其の他の行動の一切は
気晴らしに過ぎない。
もし気晴らしでない行動があるとしたら
其れは、此れは気晴らしであると自覚した行動のみである。
此れには深い解釈がある。
はじめ、僕は気晴らしが全ての行動であり。
自覚した行動其れすらも気晴らしであると思っていた。
だけれど如何だろう。
気晴らしと自覚した行動は実は
気晴らしであって気晴らしでない。
人生において人間は生ぬるい川の流れに
流されて生きている。
其れを立ち止まる。
或いは其の流れに逆らってみる。
すると其れは途端に水の水圧を感じ潰されそうになる。
実は、この行為の一部始終がある種の哲学である。
そう。
気晴らしとは、この流れに流されている
全ての行為を指す。
だとしたら
自覚した気晴らしとは?
其れはじぶんが流れに逆らっているという
其の自覚から生まれるもので。
ギリシャ神話に出てくるナルシーの話と類似する点が見られる。
水辺に水を飲みに行ったナルシーは水に映った自分を見てこう言う。
「あぁ、なんて美しいんだ。」
其れを哀れんだ神様は彼を花に変えてしまった。
其の花はナルシストと呼ばれる。
しかし如何だろう。
人間には必ず欠如がある。
其れは当人にとっての不安の材料になることは
充分である。
そして、人間は其れを認めなくてはいけない。
この、認めるという行為の一部始終が
パスカルの言う所の自覚した気晴らしである。
ナルシーは其の欠如を認めなかった。
言うなれば、幻想の中の自分しか見ていなかった。
と云うことは如何だろう?
ナルシーは決して美しいという訳ではないのだ。
自分の中に作り上げた鏡の中で幻想におぼれたのだ。