死んで仕舞う。

死ぬって一体如何云う事を言うのだろうか。
一般的に僕等は肉体が細胞分裂を停止し
呼吸・心拍が共にない事を死ぬと定義している。
でも、其れは生きている物の眼にそう映るのであって
実際、其れは死なのだろうか。
若し、僕の此の醜い肉の塊が上記の様に細胞分裂が停止し
呼吸・心拍が共に無い状態・・・所謂、腐敗を初めた時
僕は死んで仕舞ったのだろうか。
若し、其処に僕の意識が残っていたら
其れでも僕は死んで仕舞ったのだろうか
眼を瞑って耳を閉じて・・・
僕の五感が反応を停止しても『僕が考える』という事が終わっていなかったら
其れでも僕は死んで仕舞っているのだろうか。
例えば、夢の中に居る感覚。
温度も味も感じない空間。
其れでも僕は夢の中に生きていると思う。
音は聞こえなくても頭の中でイメージする事が出来る。
味がわからなくても頭の中でイメージする事が出来る。
温度を感じなくても頭の中でイメージする事が出来る。
僕は其れでも感じないと言うのだろうか。
瞳が無くても僕は見えるかもしれない。
鼓膜が無くても僕は聞こえるかもしれない。
舌が無くても僕は味を味わえるかもしれない。
肌が無くても僕は感じられるかもしれない。
鼓膜が無くては聞く事が出来ない
角膜が無くては見る事が出来ない
何て全て都合の良い辻褄合わせに過ぎないのだから。
意識丈に成っても音が聞こえるかもしれない。
意識丈になっても味がわかるかもしれない。
意識丈になっても見えるかもしれない。
意識丈になっても温度を感じられるかもしれない。
死んで仕舞うって一体如何いう事なのだろう。
僕の肉体が細胞分裂をやめて腐敗しだした事を理解する為には
僕の意識が残っていなければいけない。
僕の意識が無くなって仕舞えば
自分が死んだ事も理解出来ない。
僕は永遠に死なないのだ。
仮に此の肉体が腐敗しだしたとして其れに伴い僕の意識がなくなったとしても
自分が死んだと云う事を理解出来ない。
だとすれば時間の観念すら無くなるのだから其れは永遠だ。
仮に此の肉体が腐敗しだしたとして其れに反して僕の意識が無くならなかったとしたら
僕の意識は、其れこそ永遠に生きる事になる。
其処に時間の観念が存在するのだから。
仮に此の肉体が腐敗しだしたとして其れに伴って意識が無くならなかったとして
其れでも意識には別に意識が存在出来なくなると言う
意識の寿命があったとして
其処でずっと後に意識が死んで仕舞うのだから自分を死んだと理解出来ない。
詰まり、意識は永遠に生きるのだ
仮に此の肉体が腐敗しだしたとして其れに伴い時間という観念を喪ってしまったとしたら
其れは既に僕では無くなってしまう
時間の観念が備わっている事も僕が僕であると理解している下にある。
だから僕は永遠に存在する。
死んで仕舞うって一体何なのだろうか。