チチバビン炭化水素にピリジン合成法なら銅の使用は抑えられる。

目の前に存在する煙草とライターが
本当に其処に存在すると仮定出来るとして。
此れは極論。
本当の存在が如何云う物かを思考してはいないけれど。
飽く迄も仮定として。
でも、其の存在を認める主観的立ち位置に存在する。
僕と云う存在が其処に存在する事を認められない時。
其処に煙草とライターは本当に存在すると云えるのだろうか。
何より主観的立ち位置の存在が其処に存在する必要性が
暗黙の内に形成され絶対条件だ。
観測者の立ち位置によって
其れは外側にもなるし
其れは内側にも成り得る。
珈琲カップの取っ手だって
観測者の立ち位置によっては
内側にも外側にも成り得る。
観測者の存在が明らかにされない以上
其の先の観測結果は
何の意味も為さない。
矢張り此処には煙草もライターも存在しないのか?
然し、非観測詰り観測対象の存在によって
其処に観測者が存在するという事を
意味付ける事も出来るのかも知れない。
観測者によって観測対象の観測をする事が出来
観測対象の存在によって
観測者の位置付けと意味付けをする事が出来る。
だったら、其の双方に
今、確かに其処に存在する
と、いう事を説明する事には如何遣ったって為らない。
ならば、如何やって其処に存在するという事を
意味付ける事が出来るのだろうか。