観測的立ち位置。

日常というのは余りにも不確かで
丸で夢の中を浮遊している様な気がする
如何して、自分が今迄偶然にも生き抜く事が出来たのだろうか
等と首を傾げて仕舞う事も屡ある。
何故、あの人は交通事故にあったのだろう。
自分が、其の様な天変地異や不運に恵まれなかった不運を疑問に思う。
其れが設計された夢の中なら
或る程度の納得が行くのだが
残念な事に、此の悪夢は続く
暫し続くものなのか
其れとも永遠を以ってして終わる事が出来る夢なのか。
どちらにしても、悪夢であり悲劇である事に変わりはない。
僕が産み出した幾許かの流れは
他者様の流れと相俟って大河を為すれば
其処に自分の存在がなくても
困りはしない。
其の流域に大した差を持たす事は出来ないし
差分の運動エネルギーが重要視される訳でもない
此う表記すると、自分の産み出した流れが
何かの意味を為すのならば
此の悪夢を黙って見過ごす事も
悪い事ではないと云う意味を導いて仕舞うだろうし
実際の論理学的にも其の様な結論に達して仕舞う
其れは、僕にとって都合の良い例え話に過ぎなく
根底の所では其れすら如何でも良い事なのだ。
僕という一つの主観的な客観性を持ち合わせた
観測者は眺望している丈に過ぎない
其れがどの様な変化を齎して行こうが
僕の興味の範疇にはないのだ
僕は観測者である事に厭きたし
だからと言って実行者になる心算もないし
如何にでもなれば良いと思うのだ。