他人の存在理由と其れに関わる自分の存在との格差。

僕は物事を考える過程で
僕らが普段何気なく考えている物
捉えている物を剥奪する必要がある。
僕が僕自身を必要としない限り
僕は僕として此の世で僕を演じる必要性は皆無に等しいそう思う。
僕を殺す事も貶す事も
僕の世界の中では誰もそんな権利は僕は与えたつもりは無い。
つまりはそれらの行為において一貫して許すまじき行為だと言われても
其れを否定する事は出来ない。
だけれども其れは僕の世界なのであって
からしてみれば其の行為全ては
僕の世界で言う貶すと云う貧しい行為に該当する。
だから、僕は僕の世界でこの行為が僕だけに許されたとしても
其れを行動に移す事は出来ないのか?
それとも僕の世界以外を否定すると言う考え方を用いれば
それらの行為に移す事は許されるべき行為である。
だが、そもそもそんな行動を僕が取った所で
何の価値も得られない事は既に行動する迄もなく明白である。
と云う事は言う迄も無い。
そんな幼稚な議論を交わしているつもりは毛頭無いので
此処で、言っておく。
僕が自分の理論を貫き通すには
この作られた人格では余りにも酷な事である。
僕以外の人間の存在を一切否定しても
僕は自分が生きるこの世界で少なからず社会と云う存在を認めている。
そして僕は其の存在を必死で否定しようとモガキ続けている。