他人の存在理由と其れに関わる自分の存在との格差。

此処で少し話を戻って何で僕はあんまり年をとるのが好きではないんだ。

と云う話をしようと思う。

大半の人間は年を取りたくないだろう。

そう考えると思う。

其れ故に不老不死の薬等というものが遥か昔から云われそして探され

開発されてきた。

現代科学の理論上では不老不死を作る事は

可能なんであるとされている。

痛んだ臓器を自分のクローンを作っておき

臓器が痛む其の度に手術していけば臓器は常に新しい侭。

脳を移植するときは記憶を別の媒体に移し

その後脳移植をして記憶を戻せば良いらしい。

しかも、冬眠をするHP細胞を人体に組み込む事により

気温5度に保つ事で老化を防ぐ事が出来る。

最もHP細胞を使ってしまえば摂氏5度で思考も停止してしまうのだが

でも、HP細胞は厭くまでも老化の促進を4分の1にするから

確実に老化は進むのだが。

でも、僕が言いたいのはそう云う事ではない。

確かに、体が老化するのは厭だ。

僕は此の侭の肉体でいたいと思う。

これ以上老化が進むのははっきり云って勘弁なのだけれども。

僕は意識というものがある一定以上の時を経験したくないんだ。

どんなに僕のこの肉体が老化をしなくたとしても。

この、寿命の無いとされている僕の意識は年を取ることになる。

つまり、僕が今此の世に生まれ70年目であるとして

其れまでの69年間僕の意識は年を経過した事になる。

基、時を経過した事になる。

そう考えるのが妥当な考えだと思う。

でも、其れは如何考えても厭だ。

僕の体と意識の間に起こる年齢的矛盾を

僕はきっと認めることが出来ないだろう。

何十年もの時をこの意識が駆け巡ったのにも関わらずに

僕の肉体は一向に時を掛ける事は無いなんて絶対に厭だね。

だけれども僕が年を取るのは厭だ。

何故ならば僕は大人と社会的に認められた

人間的地位が背負うべくこの重い責任を背負う事は厭だから。

単なる個人的且つ全く持って身勝手で自分中心のこの意見。

だけれども僕の意識の中では此れはどうも仕方が無い事。

でも、可笑しいね。