他人の存在理由と其れに関わる自分の存在との格差。

僕は自分以外の人間の存在価値を全く持って否定している。

僕だけが存在し、他の人間は僕が存在する事によって

其の存在価値を与えられそして、生きている。

僕が生きている中でで会う事のない人間は

存在する価値は皆無だし

実際に会わない人物なんて

幾らテレビなどで報道され僕の知識に其の人間の情報が加えられた所で

其れは単なるフィクションの世界でしかない。

僕が触れる。

其の瞬間のためだけにみんな。

全ての人間は存在価値を与えられる。

そう考えてきた。

いや、そう考えている。

だけれども、その全く関係ない存在価値の無い奴等が作った

其の社会という枠の中で僕は負うべき責任を求めている。

そして、其の価値の無い奴等の目を怯えて

必死に自分を造りそして

いつしか自分自身すらも騙している。

何でだろうか?

価値の無い、存在価値の無い。

そんな物の穴の中に僕の存在を認めている。

20になれば誰でも大人になる。

でも、其れは僕が大人になるわけではない。

30になったって僕は子供で居るかもしれない。

其れは僕がとるべく行動で定められ

そして、僕の意思で大人になるものである。

でも、何故僕は20で大人になるのか?

其れは僕が大人になるのではなく。

社会が大人と見做す訳である。

なんで、僕はこんなにも排除している他人の世界に

こんなにも気を向かせるのか?

『何でだろうか?其れは未だに解からない』此れが今の僕の答え。

決して此れが正しい答えだとは思わない

けれども此れが今では正解である。

人が生きている意味を問うように

そして其の答えが常に変化する様に無機質な物。

つまりは抽象的なものに決して正答などと言うのは存在しない。

敢て云うならば

正答など存在しないと云うのが別解の正答でも在り得る訳だが。

だけれども答えと言うのは常に存在する。

そう、此の世に存在する『謎』と云うもの全てに答えが存在するんだ。

だけれど、其の大半は未だ解からないという答えが殆ど

人間が生まれてこの方数千年

たったこれっぽっちで世の中に存在する全ての謎を解明できるなんて

自惚れもいい所だ。

少し深く考えるとするならば

僕はこんなにも排除している他人の世界に

こんなにも気を向かせるのか?

と云う僕の謎に対して

僕は今まで自分が信じて疑わなかった

自分以外の人間の存在を否定すると言うこの考え方を

否定しなければならない。

又は其れは気にし過ぎだ。

と自分を騙すしかない。

思えば全ての物事は自分の思い込み騙しによって造られている。

この物事はこう云う経緯を辿りこうなる。

なんて云う方程式じみた世界の物事を僕は自分を騙し、そしてその結果

そうだと思う。

僕は物事に対して疑う事が余りにも少ないんだなと実感する。

まぁ、今度は何で僕はそんなにもして

僕以外の人間全ての存在価値を否定するのか?

と云う話でもしてみようかな。

其れはまた次回で。