愛について。

僕は…と書き出した所で出て来る単語は決まったようなものだ。
悲観的にルサンチマンを気取った所で
亦か…と思うだろう。
そんな、如何でも良い事だ。
仕方が無いだろ?
この世で生きると云う此の事実が途轍もなく如何でも良く
下らなく、死ぬ迄の気晴らしでしかない。
今日は少し、『愛』について書いてみようか。
こんな、20歳にもならない餓鬼が解り切った事を書くとは
少し、可笑しいかも知れないな。
そう思った人は嗤えば良い。
僕は、女の人が子供を孕み此の世に招待する事
其れ自体が愛が無い事だと思う。
どんなに、此の世が素晴らしいだとか教えても
所詮は死んでしまう運命だ。
其の、死の恐怖に震え怯えながら幾年も生きていくのは
とても不幸だろう。
子供を宿し、産み落として
其の後どれだけ其の子に愛情を注いだとしても
到底、此の世に招待した罪を償う事は出来ない。
『素晴らしい』と云う感情を与えなければ
知らなければ、其れを『素晴らしい』と認識出来ない様に
どんなに此の世が素晴らしいと言った所で何の解決にもならない。
だから僕は僕を此の世に産み落とした母親と、其の原因を作り出した
父親を一生恨み続けるだろう。
此の世に生まれて来てくれて有難う。
等と言う感動的なドラマ・ドキュメントを見かける事も多いのだが
其れは結局、自分が生んだ亦は其の原因を作った人間たちの自己満足に過ぎない。
僕が、若し其の様な言葉を浴びせられても
其れは、貴方たちの自己満足なのだ。
僕は、此の世に生まれてちっとも嬉しく等無い。
貴方たちの自己満足の為の道具として作られた僕の不幸を如何償ってくれるのだ?
と、問い質すだろう。