絶望について。07年提出論文拠り【改訂版】①

絶望とは或る種の甘味で依存性が有り取り扱いには
厳重な注意が必要である。
然し、厄介な事に其れは急に現れたり
現れなかったりする。
此れが現れた場合には直ぐ様対策を練らないと
取り返しの付かない事になる場合もある。
彼の有名な心理学者フロイトに拠ると
奇妙な事に絶望に陥った人間に其処から抜け出す手立てを示してあげると
初めは絶望から抜け出す事を懇願していたのに対し
いざ、其の術を目の前にすると今度は其の術を拒み始めると云うのだ。
(彼の論文快感原則の彼岸及び精神分析入門による)
此処に絶望の甘味と依存性が存在する。
甘い密だと云う事を知っているのだ。
絶望と云う状況がどんなに甘味で素晴らしい物かを。
有名な数学者・科学者のパスカルは自身死後に発行された著書
『宗教および他のいくつかの問題に関するパスカル氏の諸考察 — 氏の死後にその書類中より発見されたるもの』
(後に『パンセ』に改名)の中で「気晴らし」と云うものに触れている。
人生に於ける全ての行為は単なる気晴らしに過ぎないと。
其して、唯一気晴らしで無い事があるとすると其れは自覚した気晴らしであると。
気晴らしとは名の通りの気晴らしで。
其の気晴らしが何かというと人間の絶対的不幸で或る死に対しての気晴らしである。
始皇帝も此の絶対的不幸に対しての抵抗を見せたが国家の力をしても手に入れる事等出来なかった
人間の永遠のテーマである。
人間は生きる為に食べ物を獲なければならない。
其処に理性は殆ど必要とはされない。
人間はそうする事で絶対的不幸で或る死について考える事を拒絶し続けていた。
其れがパスカルの言う気晴らしである。
其して、自覚した気晴らしとは・・・
自分は気晴らしをしていると自覚する事である。
其れ故に其の気晴らしが何であるかを自ずから知っている事になる。
其れは言われも無い死であるから。
自覚した気晴らしとは死について考える事である。
絶望とは当に其処なのである。
絶望をし、死を純粋な迄に1点見詰める。
其処に他の感情は入り得ない。
只、死が其処に無限の広さを持って広がる。
部屋も家も国も空間も時も全てを死一点で多い尽くす。
其処に気晴らしは存在しない。
充実しているのだ。