絶望について。07年提出論文拠り【改訂版】②

然し、人間というのは自己保護機能が備わっている。
例えば目の前の壁に己の拳を思いっきり当てる時
其処に自己保護機能が働き本来人間の持っている破壊力で
壁に力を加える事は出来ない。
そんな事をして仕舞えば自分の拳が骨ごと砕けて仕舞うからだ。
詰まり、意識が無くなる時
人間が非常に重く感じるのは其の自己保護機能が働かずに
全体重が高さの加速度と共に掛かるのに由来する。
其れと同様に絶望に陥り
死を一点丈純粋に見詰める時に
其の思考の最終過程として人間は死に飲み込まれてしまう。
部屋も家も国も空間も時も全てを死一点で多い尽くし
やがては思考主である己すらを覆い尽くして仕舞うのだ。
そうして絶望は人間を死へと誘う。
此れを身体は知っているのだ。
絶望等理性が生まれたが故の感情・感性なのだろうが
体は何故か本能的に知っている。
(此の大いなる矛盾を解決するのが私の一つの哲学的テーマである。
『理性と感情及び思考能力に関する哲学的考察』)
其れを阻止する為に身体は必死に絶望と云う甘味に
「気晴らし」という抗生物質を与える。
然し、精神は此の甘美から脱する事を否定する。
其処に先に記したフロイトの事例が挙げられる。
此れを彼は「抵抗」と名付けた。
若し、絶望が此れ程の甘美である事を承知して頂けるのなら
私には一つの提案がある。
其れは私達が幸福だと言っている此の状況が何拠りも絶望で
私達が絶望だと言っている此の状況が何拠りも幸福なのかもしれない。
何より、死一点だけを見詰めて考え抜く事が出来るだなんて
此れ程迄に素晴らしい事は無いであろう。
私達は勝手に其れを絶望と呼んで感傷的に成っていた丈なのかも知れない。
こんなにも私達が抵抗を示すのですから。