鶏と卵。②

果たして言葉が理性を生んだのか
理性が言葉を生んだのか
此れは鶏と卵の関係の様に容易ではない。
理性が生んだから言葉なのではないし
言葉が生んだから理性なのでもない。
然し、理性が生まれ其れ故其れを伝える手段として
言葉を有したのかもしれない。
然し、理性が先に生まれたとして其れを伝える手段迄行くと其処に
論理的思考乃至言語構築が上げられる。
言葉の起源は勿論鳴き声だといっても疑う人は極少数だろう。
まぁ、現に今僕達が発している会話すら鳴き声なのだけれども。
さて、此処で理性について少し考えてみよう。
『理性』とは一体何か?
僕の所有する新明解国語辞典 第5版に拠ると以下の様な記述がある。
  

理性:感情に動かされたりしないで、論理的に考えをまとめたり
  物事を判断したりする頭の働き
頁1466 新明解国語辞典

  
詰まり、理性とは論理的思考力を含んでいるのだ。
理性的である事は論理的思考力を有していると云う事を指す。
では、論理的思考力とは何か
同辞書で調べると此の様な記述に当たった。
  

論理的:前提とそれから導き出される結論との間に道筋が認められていて
   納得がいく様子。
思考:冷静に論理をたどって考えること
前者 頁1505  後者 頁580 新明解国語辞典

併せて考えると論理的思考力とは
冷静に前提と導き出される結果との間が納得の行く様子・・・。
といったところだろうか?
余談になるが国語辞典を愛用する人には解かると思うのだが
国語辞典にはある定義について調べる時
別の類似した言葉で表現され其の類似した言葉を調べる時
亦類似した・・・・と堂々巡りな記述をされている事が多々ある。
辞書でAという意味を調べようとしてBと云う記述が使われ
其のBを調べようとしてCが出てきてCを調べようとしてAに成る。
といった感じだ。

さて、此処で気になるのが前提から導き出される結論・・・云々である。
此れは果たして言語を有していないと出来ない事なのだろうか?
例えば、サバンナで水を飲んでいるバンビが居るとしよう。
其処にライオンが来たとしてバンビは何故逃げるか?
此の状況を先の言葉に当て嵌めると
前提:自分(バンビ)の近くにライオンが居る。
考えられる結果:ライオンに自分は食べられる。
結果:逃げる。
バンビはライオンに食べられるという結果を言語を用いらないでも
知っているが故に逃げたのである。
自分が食べられるという結果を導けるのであるから
此れは充分な理性ということが出来るのではないだろうか?
詰まり、理性は言語を必要とはしない。
と、言えるのではないだろう。
   
では、言語とは何か?
理性から得られた本能的危機感を伝える手段として
言語の発達が得られたと僕は考える。
上記の様に理性を定義した場合
だとするのなら、本能は何処から来るのか?
と云う問に行き着く。
先にバンビが逃げたのでも本能が逃がしたのかもしれない。
そういえるだろう。
其れは、次回。

○参考記事
鶏と卵①