次の記事を読むに当たっての伏線に等しい文章を此処に記す。

教育者には、モノを教える事が出来る
という、思い上がった信念が存在する。
手を出さない子供にお菓子を与える事が出来ない様に
教育を受けるという動詞は有っても
教育するという概念は単独では存在し得ないのである。
其れに、教育には水が流れる様な上下関係がある。
然し、学問には其れが無い。
学問に有るのは高さではない。
到達出来ない
極める事の出来ない
寂しさの無限の広がりの様なモノが只、ある丈だ。
学問には、教育という不躾な言葉とは丸で無関係な静寂さが必要であり
障害物の無い広い見通しが不可欠なのである。
小学校、中学校と同じ様に大学校と呼ばない理由は其の為である。
大学とは教育を受けるのではなく、学問をする所ではなかったか?