罪(主に殺人罪)についての個人的且つ哲学的見解@6

では、例えば。
僕が死にたいと願っていて。
其れを叶えて呉れる心優しい人間が居たとしよう。

(脱線するが、若し其んな人が居るのなら僕は意識を失う瞬間迄
其の人に感謝するだろう。
自分で死にたいと常に願っていても
自分で死ぬ事の出来ない自分を
何だかんだで理論武装し今迄生きて来た
此んな自分の命を奪って呉れるのだ。
自分の全財産を上げても感謝しきれない。
但し、僕は死ぬ事に関して色々と拘りを持っているので
其れを全て叶えて呉れないと僕は厭だが)

其の人が僕を殺した場合。
果たして、其の人は罪になるのだろうか。
勿論、法律的には裁かれるが
僕は其れはおかしいと思う。
僕は死を望んでいるのであって
相手は其れを果たして呉れた
感謝こそすれ
相手の肉体的自由を
其して其の人の所有する時間を
強制的に剥奪され監禁され拘束するのは
お門違いも甚だしいだろう。

此れを違法と表現しようか。
然し、法律的には正しい事をした。
此れを違戻とでも表現しようか。
然し、集団的道理の中では正しい事をした。
此れを背馳とでも表現しようか。
然し、集団道徳的には正しい事をした。
此れを非人道的だとでも言おうか
然し、集団道徳的には正しい事をした。
如何しても理解されない。
誰にも理解されない。
誰も認めない。
其処に罪は存在しない
其処に罪は存在しない
其処には
称賛と
歓喜
欣快と
愉悦と
欣幸と
狂喜と
喜悦と
喜色満面しか存在しないのだ。
存在してはいけないのだ。

では、何故其処に罪が存在しないにも拘らず。
社会は其れを罪とするのか。
所謂、法律的解釈に則る罪が存在するのだろうか。
其れは、此の場合の殺人は罪であり
此の場合の殺人は罪ではない。
と、種分けをするよりも
客観的に見て全て同じである。。
殺人と言うものを罪にして仕舞う事で
済まそうとする司法の怠惰なのかもしれない。